ではぼくは幸せになれるのかという話
ぼくもといわたしは友だちが少ない。
関わる人間がもしかしたら少ない。
多くの友だちを望んでいない。
でも少しは欲しい。
世の中の人たち(わたしの友だちとか)は友だちが多いなと思う。仕事のある日も休みの日も色々な友だちと遊びに行った話を聞く。
わたしはそういう友だちって3,4人? 日常の中にいるなというのは1人だけ。別に今は足りているけど冗長性に欠ける為この子がいなくなったらどうするのかしらとたまに思う。(これを不安という)
相対的にとらえてどうなのかは知らないが、わたしの人生はまあまあ孤独に寄り添ってあるように感じている。
孤独はよく感じるが孤独が本当につらいと感じる時間は(比率として)多くない。(だいたい日曜日の夕方が多い)
この感覚は森博嗣の「孤独の価値」という著書で語られている内容に概ね同意する。(ただしわたしは孤独の価値についてはそれなりに否定的であるけど)
なんというか、確かに孤独に価値はあると思う。わかりやすく経済的価値を生む原動力になると思う。
森博嗣の孤独の価値で1番共感した事は創作は孤独の中から生まれるものであるということ。
わたしは学生の頃絵を描いたり彫刻をつくったりして単位を取る学科にいたわけだけど、仲間はいても制作活動は基本的に孤独であるし、孤独な方がいいものがつくれる。
孤独はある種の豊かさを生み得ると思う。
ただわたしは貧しかろうが幸せな方が普通によくないですか、と、思う。
経済的な豊かさが幸福度に直結するわけではないように、孤独が生む豊かさだって幸せとは直結していない。
高尚であると思うし、思想が豊かであるのはやはりある種幸福であるとも思う。
でも、意識が曖昧でも構わないし、高尚でなくともいいのでセロトニンとアドレナリンに塗れた生活って幸せだなと思うし、わたしも欲しい。
でも、そういう生活って外から観ると全然美しくない。なぜ思考停止の中で笑えるの?って思う。 (わたしたちは大概思考の最中に笑っていないのだけれど)
もはやそこに飛び込もうってもの凄い勇気を要するし、下手したら幸せを感じる前にストレスで違うものになってしまうかもしれない、というジレンマが既に想像できる。
そこで本題に戻る。
ぼくは現状に孤独と不安を感じているがそれも含め、人生はそれなりに複雑で面白おかしく、自分ではそこそこ気に入っている。
けどそれって幸せなの?と問われれば強烈に不幸ではないけどそんなに幸せじゃないんじゃないかなと思ってる。
ただ漠然とした憧れなのだけど、ぼくは幸せになりたい。具体的には家族でも知人でも、わたしの死を惜しむ人間に看取られたい。
このお気に入りの人生と、幸福な死を天秤にかけるのってものすごくむずかしい。
というか後者を迎える資質がぼくにはそもそもないんじゃないのかしらと感じている。
この、定期的にたまに苛まれる孤独感って、まあ、ここで語った幸せな人生にだって存在するだろうし、適当に散らして生きるしかないんだろうけど。
偏頭痛みたいなものよね。なんか薬で散らせばいいのかしら。